【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩。東京駅丸の内南口への移動映像4です。
車中ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。
・バスは銀座を通過。
・築地本願寺
・新橋演舞場
・歌舞伎座、初代は洋風。
・銀座の由来
・リムジンカー
・和光、服部時計店、独特なショーウインドー。
・アンパンの木村屋総本店
・銀座八丁。
・東急プラザ銀座(江戸切子モチーフ)
・西銀座チャンスセンター宝くじ売り場、1番売り場が混む、3時間待ち。
・有楽町マリオンビル
・茶人の織田有楽斎
・ホテル、ザ・ペニンシュラ東京
・日比谷、宝塚劇場、日生劇場
「銀座」という地名は、江戸時代に幕府が銀貨鋳造所を設立したことに由来します。1603年に江戸幕府を開いた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座2丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として「銀座」と呼ばれるようになりました。
銀座は、江戸時代には銀座役所があり、銀貨の鋳造や管理、事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場がありました。銀座は銀を特権的に扱うため、相当な利益があり、「銀座」役人の羽振りは相当良かったようです。しかし、いくつもの不正事件を起こし、1800年(寛政12年)に「銀座」は日本橋蠣殻町に移転させられてしまいました。しかし、銀座という通称だけは残ったのです。
現在の銀座は、明治時代に煉瓦造りの建物が建てられ、西洋風の街並みが形成されました。明治政府によって、道路幅の拡大を中心とする街路整備計画と、煉瓦を主材料とする不燃性洋風家屋の建築の二本柱から成る計画が立てられ、建設のために当時の政府予算の約27分の一という巨額の支出が投じられました。
築地本願寺は、東京都中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。本山である京都市の西本願寺の直轄寺院であり、東京都内における代表的な寺院の一つです。本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像です。築地本願寺は、インドと浄土真宗の建築様式を併せ持つ築地市場のすぐ近くに立つ寺院で、曲線を描く石のファサードなど、インド等アジアの古代仏教建築を模した外観が特徴です。重要文化財指定の由緒ある建築であり、ステンドグラスやパイプオルガンのある由緒ある仏教寺院としても知られています。
本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像です。
新橋演舞場は、1925年に開場した歴史ある劇場です。新橋芸妓協会が中心となり、新橋演舞場株式会社を設立し、資本金200万円で建設されました。当時の東京市京橋区木挽町10丁目14番地(のちの6丁目9番地、そして現在の中央区銀座6丁目18番2号)に建てられたこの劇場は、定員1,679人の三階建ての立派な劇場でした。多くの優れた専門家が結集し、1923年に着工。その途中で関東大震災に遭い、一時工事を中止するハプニングもありましたが、20ヶ月にわたる全工事を完了し、開場にこぎつけました。当初目的だった新橋芸者の技芸向上を披露する場として春秋二季に「東をどり」を主に公演。1940年に松竹株式会社と興行契約を結び、松竹が興行面を受け持って松竹傘下の主要劇場となりました。そして長い歴史の中で観客に親しまれながら、歌舞伎、新派、新喜劇、新國劇、前進座を演舞場のカラーとして定着させていったのです。第二次世界大戦では空襲のため、外周りを残して焼失。1948年に復興されましたが、終戦直後の再建のため、舞台の規模を生かす舞台機構や諸設備が新しい時代の要請や消防法などにこたえられなくなりました。そこで1982年に新装されたのが、日産自動車本社ビルと複合した現在の演舞場です。新装には最新システムの導入だけでなく、ゆとりある客席空間、正面玄関のレンガなど、旧演舞場設計の精神が大切に受け継がれています。
ここで上演された作品の中でも、有名なものとしては以下のものがあります。
「東をどり」とは、新橋演舞場で毎年5月に上演される、新橋芸者の晴れ舞台の一つです。この公演は、幕末に興り、近代化の明治に発展した新橋花柳界の芸の一流を目指す芸者たちが、技芸向上を披露する場として、大正14年に造られた新橋演舞場で春秋二季に主に公演されるようになりました。この公演は、歌舞伎とミュージカルを融合させた作品として知られており、日本の美が凝縮された公演として多くのお客様に親しまれています。
歌舞伎座は、1889年に開場し、明治、大正、昭和、平成にわたって、古典演劇としての洗練を極めると共にその時代の息吹を取り入れた舞台を上演し続けてきました。以下は、歌舞伎座の歴史の概要です。
「リムジンカー」とは、一般的には、後部座席部分の構造を延長し、運転席との間に(可動式の)仕切りを設けた大型乗用車のことを指します。この車種は、主にVIPや上流階級の方々が利用することが多く、高級感あふれる内装や豪華な装備を持つことが特徴です。
リムジンカーの歴史については、1920年代にコーチビルダーによって製作されたものが最初とされており、現在でもおもにアメリカでさかんに生産されています。
「和光」という名前の由来は、創業者の服部金太郎が、時計の針が「和」の字を描くように、そして「光」が永遠に続くようにという願いを込めて名付けたことに由来します。1881年に創業した「服部時計店」が前身であり、1894年には初代時計塔が完成し、銀座のシンボルとなりました。1932年には現在のビルが建てられ、和光の歴史は続いています。
「木村屋総本店」は、1869年に創業した日本の老舗パン屋です。 1874年には、酒種発酵種によって作りあげたパン生地であんと桜の塩漬けを包み、初めてのあんぱんが誕生しました。 木村屋の伝統的な酒種あんぱんをベースとして、季節に合わせたさまざまな味のあんぱんが生み出されています。
「東急プラザ銀座」は、2016年3月31日に開業した、銀座エリアの再開発事業によって誕生した複合商業施設です。この施設は、全13フロアに最新のトレンドを兼ね備えたアパレル、雑貨、グルメが揃い、6階-7階は「FIND JAPAN MARKET」と称した、世界に誇る日本の“本物”に出会えるお買い物ゾーンもあります。また、建物外観は日本の伝統工芸である「江戸切子」をモチーフとし、全体的に和風のデザインが特徴的です。
「江戸切子」とは、江戸時代末期から東京都において生産されているガラス細工で、透明な鉛ガラスに鑢や金棒と金剛砂によって切子細工をし、木の棒等を用いて磨き行った手作業による細工によって制作されたと言われています。当時の薩摩切子が厚い色ガラスを重ねた色被せ(いろきせ)ガラスも用いていたこと、ホイールを用いた深いカットと大胆な形であることとは大きな違いがある。明治期以後は薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や海外からの技術導入により、江戸においても色被せガラスの技法・素材も用いられるようになりました². 江戸切子は、その美しさと品質を追求したガラス工芸品として、現在でも多くの人々に愛されています。
西銀座チャンスセンターには、13の窓口があります。毎年長蛇の列ができることでも有名な1番窓口は、ジャンボの季節の風物詩となっています。また、西銀座チャンスセンターでお買い求めされた平成~令和の億万長者は、513名・総額867億円、日本一の宝くじ売場です。
有楽町マリオンビルは、東京都千代田区有楽町二丁目にある複合商業施設です¹。正式名は有楽町センタービルで、愛称は「有楽町マリオン」。ファッションビル、映画館、劇場、ホールで構成されており、JR有楽町駅から徒歩3分の場所にあります。また、縦ストライプのアルミ製飾り柱(マリオン)と2人ラルドグリーンのハーフミラーガラスには有楽町の街並が美しく映えています。駐車場もあり、149台(平置き119台)収容可能で、高さ2.1m、長さ5.0m、幅2.3m、重量2.0t以下の車両が利用できます。
有楽町マリオンビルは、1984年10月6日に開業した複合商業施設です。朝日新聞社、東宝、松竹が所有権を持っております。1980年代に入ると、世代交代が行われ、有楽町駅前再開発事業の一環として、朝日新聞社と日劇の建物が解体され、有楽町センタービルがオープンし、新たなシンボルが誕生しました²。1999年には、丸の内松竹が「丸の内プラゼール」に改称しました。歴史的には、南町奉行所があった場所に建てられたとされています。
「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将、織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)(長益(ながます))に由来します。有楽斎は茶人としても名をはせ、関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋(すきやばし)御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。江戸時代には、南町奉行所があった場所に建てられたとされています。
織田有楽斎(おだうらくさい)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人で、織田信長の弟です¹。彼は茶人としても名をはせ、千利休の高弟の一人に数えられます²。また、自ら茶道有楽流を創始し、京都建仁寺の正伝院を再興しました。有楽斎は、豊臣秀吉に仕え、のちに徳川家康にも接近しました。
ペニンシュラは、東京の千代田区有楽町に位置する5つ星のラグジュアリーホテルです。ペニンシュラ東京は、2023年に米国の権威ある雑誌「フォーブス・トラベルガイド2023」にて“ホテル部門”においては8年連続の、”スパ部門”においては9年連続の最高ランク5つ星評価をいただきました。ペニンシュラ東京は、皇居外苑と日比谷公園に面しており、ショッピングの中心地、銀座までは徒歩圏内と最高のロケーションに位置します。ペニンシュラ東京は、直接予約で、チェックイン・チェックアウト時間をお選びいただける「ペニンシュラ・タイム」をお楽しみいただけるほか、ベストアベイラブル料金にてご宿泊いただけます。
日比谷は、千代田区有楽町から内幸町にかけた一帯の地域名です。江戸時代初期の地形が関連するものがあります。この辺りは当時漁民がすむ村落でした。漁民が海苔をとり、魚をとらえるために海の中に立てる竹の小枝のことを「ひび」と言います。 「ひび」がたつ入江 (谷)であったことから日比谷という地名に転じた、というものがあります。
東京宝塚劇場は、1934年に東京での宝塚歌劇の拠点として誕生しました。その後、1998年から建替工事が行われ、2001年にリニューアルオープンしました。総客席数は2,079席で、どの席からもステージが見えるように設計されています。宝塚歌劇団の公演が行われるほか、コンサートや演劇などの公演も行われています。東京宝塚劇場の住所は、〒100-0006 東京都千代田区有楽町1‐1‐3(東京宝塚ビル内)です。営業時間は、10:00~18:00で、月曜日が定休日です。
日生劇場は、東京都千代田区有楽町にある劇場で、1963年に開場しました。総客席数は1,334席で、オペラ、ミュージカル、演劇、歌舞伎など幅広いジャンルの公演が行われています。
【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩。東京駅丸の内南口への移動映像5です。
車中ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。
・明治安田生命館。
・明治安田生命館前には外国の新任大使が「信任状奉呈式」のために乗る馬車が停まる。
・東京駅から皇居までの道路には専用の通路がある。
明治安田生命館は、東京都千代田区丸の内にある重要文化財の建築物です。1934年に竣工し、当時の明治生命保険相互会社の本社として使用されました。設計は岡田信一郎氏が手がけ、古典主義様式の最高傑作として高く評価されています。現在は、明治安田生命の本社として使用されており、一般公開もされています。2023年7月1日より、音声ガイド「歴史・建築の魅力を語る 明治生命館アテンドツアー」の利用が開始されます。入館については人数制限を実施しており、館内の混雑状況によって入館までお待ちいただく場合があります。
古典主義様式の建物とは、古代ギリシャ・ローマの芸術作品の様式を模範とした、18世紀にヨーロッパで流行した建築様式です。古典主義様式の建物は、古代ギリシャ・ローマの建築様式を取り入れ、シンプルで均整のとれたデザインが特徴です。
古典主義様式の建物には、古代ギリシャ・ローマの芸術作品の様式を模範とした、18世紀にヨーロッパで流行した建築様式が含まれます。古典主義様式の建物は、シンプルで均整のとれたデザインが特徴で、古代ギリシャ・ローマの建築様式を取り入れたものが多いです。代表的な古典主義様式の建物には、以下のようなものがあります。
日本には、古典主義様式の建物がいくつかあります。代表的なものをいくつか挙げると、以下のようなものがあります。
などがあります。
信任状奉呈式とは、新任の外国の特命全権大使が信任状を天皇陛下に捧呈する儀式です。 この儀式は、宮殿松の間で行われます。 外務大臣または他の国務大臣が侍立することとされています。なお、大使一行の皇居への送迎に際しては、大使の希望により、皇室用の自動車か馬車が提供されています。解任状捧呈式は、単独で行われた例はなく、新任の大使が信任状と共に前任者の解任状を捧呈するのが慣例となっています。
信任状奉呈式の際には、東京駅前から皇居・宮殿までの約1.5キロの道路を馬車列が通ります。
東京駅から皇居までの道路には、特別な道路があります。この道路は、天皇が行幸するために利用する道路で、行幸通りと呼ばれています。行幸通りは、皇居前の和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までを結ぶ「東京都道404号皇居前東京停車場線」の特例都道を指し、幅員約73メートルの道路です。この道路は、馬車列が通ることでも知られています。
行幸通りは、関東大震災の震災復興事業の一環として整備され、4列の銀杏並木を持つ皇居から東京駅へ通じる通りとして、大正15年に完成しました。この道路は、天皇が行幸するために利用する道路で、行幸通りと呼ばれています。
外国の新任大使の「信任状奉呈式」の時のみ車両が通れる標識です。基本それ以外は歩行者専用道路です。
【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩。東京駅丸の内南口への移動映像6です。
車中ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。
・東京駅について
・東京駅の設計家
・東京駅は戦災からの修理を昭和22年に実施するも完全ではなかった。
・平成になり開業100周年を迎えるに当たり、完全に修理。
・修理部分は3階部分。丸いドーム部分。それまでは3角形の形でした。
・東京駅の中央口は中央から左にずれている。
・東京駅中央の国旗がある出入り口は皇室の方専用の出入り口。
東京駅は、1914年に開業した、日本を代表する駅の一つです。駅舎は、辰野金吾氏が設計し、大正時代の洋風建築の代表作として知られています。開業当時は、中央停車場として、東京市内の各方面に向かう列車が発着していました。その後、東海道新幹線の開通や、地下鉄丸ノ内線の乗り入れなどにより、利用客は急速に増加していきました。駅舎は、第二次世界大戦中の空襲で被災し、戦後の昭和22年には、戦災で被災した駅舎の復旧工事が行われました。2007年からは、創建当時の姿に戻すべく保存・復原工事が行われ、2012年に完成しました。
東京駅の3階にある円いドームは、開業当時から存在しているもので、辰野金吾氏が設計したものです。このドームは、2007年からの復旧工事の際にも再現され、現在も東京駅の象徴的な建物の一つとして親しまれています。
東京駅には、皇室専用入り口が存在します。ただし、一般の方は利用できません。また、詳細については公式サイトに記載されていない。
辰野金吾は、日本の近代建築を代表する建築家の一人です。彼が手がけた建築物には、東京駅、日比谷神社、旧東京中央郵便局、旧日本銀行本店、旧三菱銀行本店、旧横浜正金銀行本店、旧第一勧業銀行本店などがあります。