浅草演芸ホール2

銀座キャピタルホテル茜から浅草への移動映像2

【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩。銀座キャピタルホテル茜から浅草への移動映像2です。

 車中ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。

・このあたりには中村座、京都からお芝居を行う人たちが住むようになった。

・人形町は、人形を作る人、修理する人が多くいた。

・人形町は末廣神社でも有名です。

・本町は薬品関連の人々が多く集まっている。

・バスは昭和通りから江戸通りに入った。

・スカイツリーについて。

・小伝馬町は、江戸時代牢屋があった。

・牢屋には安政の大獄の吉田松陰、お芝居で有名な白井権八、八百屋のお七も収監された。

・現在その場所は公園。

・馬喰町は昔、馬市が立つ町。

・馬喰町は宿屋も多く、旅人に日用品を売る店も多かった。それが現在の問屋街のなごり。

・繊維関係、金物屋、雑貨などの問屋が多い。

・バスは神田川に架かる浅草橋を渡り、蔵前という町に出る。

・両国は相撲の町。

・隅田川に架かる両国橋は、東京の武蔵の国と千葉県の下長の国をつなぐ橋。

・両国国技館周辺はちゃんこ屋や相撲部屋がある。

・夕方は浴衣掛けした相撲取りと出会える町。

・バスは神田川に架かる柳橋を渡る。

・人形の「吉徳」「久月」。

・蔵前町の由来。

・次の浅草ツアーに関し、浅草寺、門前町、ご本尊。金の観音。

・三代将軍徳川家光が前本堂を建てた。

・前本堂は戦災で焼け落ち、昭和33年に現在のコンクリート造りの本堂を再建。

・雷門(風神、雷神)昔は「風神雷神門」と呼ばれていた。

・今の雷門の由来は、気の短い江戸っ子が中を取って「雷門」と呼び始めた。

・仲見世通りには「雷おこし」、「手焼きせんべい」などの土産がある。

・ただ、仲見世通りは食べ歩き禁止。

・バスは浅草寺裏側の浅草寺裏駐車場に駐車。そこからバスガイドの案内で浅草演芸ホールに行き、落語などの演芸を楽しみ、その後仲見世通り散策を楽しむ。

「中村座」について

 中村座は、江戸時代に存在した歌舞伎劇場の一つで、江戸三座の一角を占めていました。中村座は、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が、1624年に江戸の中橋南地(現在の京橋の辺り)に創設したもので、これが江戸歌舞伎の始まりとされています。当初は猿若座と称し、その後、中村座と改称されました。中村座は、多くの名作を生み出し、多くの人々に愛された劇場でした。現在、中村座は存在していませんが、平成中村座などで公演が行われています。

「人形町の由来」について

 人形町の由来については、複数の説がありますが、一般的には、人形遣いが多く住んでいたことから名付けられたとされています。江戸時代には、人形町周辺に歌舞伎小屋があり、人形浄瑠璃や人形芝居も行われていました。現在、人形町は、多くの飲食店やお土産屋さんがある、下町情緒あふれる街として知られています。

「人形町の神社」

 人形町には、多くの神社があります。その中でも、人形町二丁目にある「末廣神社」は、江戸時代初期に建立された神社で、地元の方から親しまれています。また、人形町三丁目にある「小網神社」は、強運や厄除け、金運にご利益があるとされ、多くの参拝客でにぎわっています。

「スカイツリー」について

 東京スカイツリーは、東京都墨田区押上にある電波塔で、高さは634mであり、タワーとしては世界第1位です。東京スカイツリーは、2012年5月22日に開業し、現在では、東京のランドマークの一つとして多くの人々に愛されています¹. 東京スカイツリーには、展望台やレストラン、ショップなどがあり、多くの観光客が訪れています。

「小伝馬町」について

 小伝馬町は、東京都中央区日本橋小伝馬町にある町名です。江戸時代には、旅人宿や繊維問屋、金物問屋が多く連なっていた賑わった町でした。現在は、オフィスや衣料品、服飾雑貨を中心とする街並みに、少数ながら小物問屋が入り混じっています。

 江戸時代には、小伝馬町に牢屋敷が存在しました。伝馬町牢屋敷は、江戸時代に存在した囚人などを収容した施設で、現在はその一部が東京都中央区立十思公園になっています。

「吉田松陰」について

 吉田松陰は、幕末の日本の武士、思想家、教育者であり、山鹿流兵学師範でした。彼は、明治維新の精神的指導者・理論者としても知られています。彼は、松下村塾で多くの志士を教育し、明治維新に貢献しました。

 安政の大獄は、江戸時代後期の1858年から1859年にかけて、幕府が行った弾圧のことです。

 安政の大獄で処刑された人物には、吉田松陰や橋本左内、頼三樹三郎などが含まれています。

 吉田松陰(よしだしょういん)は、幕末の思想家・教育者であり、松下村塾を主宰し、多くの弟子を育てました。彼は、尊王攘夷の思想を唱え、明治維新を精神的に率いたことで有名です。彼の生涯は、1830年に山口県萩市で生まれ、1859年に江戸で斬首刑に処されるまでの短い29年間でした。彼は、多くの名言を残し、その思想は今でも多くの人々に影響を与えています。

「白井権八」について

 白井権八は、江戸時代前期に実在した因幡の武士で、講談や浄瑠璃、歌舞伎などの世界でも知られています。彼は、松下村塾で多くの志士を教育し、明治維新に貢献しました。

 白井権八(しらいごんぱち)は、江戸時代前期に実在した日本の武士であり、講談、浄瑠璃、歌舞伎、映画などの世界では「白井権八」として知られています。彼は、鳥取藩士であり、数え18歳の1672年秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫を斬殺して、江戸へ逃亡しました。その後、新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となり、困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされます。

 1679年12月5日、品川・鈴ヶ森刑場で刑死しました。享年25(満23-24歳没)でした。

「八百屋のお七」について

 八百屋のお七(やおやおしち)は、江戸時代前期に実在した日本の女性で、火あぶりにされたことで有名です。彼女は、天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火で焼け出され、親とともに正仙院に避難しました。そこで寺小姓の生田庄之介と恋仲になり、再会したい一心で自宅に放火しました。火はすぐに消し止められましたが、お七は放火の罪で捕縛され、鈴ヶ森刑場で火あぶりにされました。

 彼女の生涯については、伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によると、お七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされたとされます。

「馬喰町」について

 馬喰町という地名は、日本各地に存在する地名の一つで、都市の中心に位置する町や、最初にできた町を指すことが多いです。

 江戸時代には、馬喰町に馬市が存在しました。天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入城した際、府中の馬市をこの町で行うようにし、高木源兵衛が馬の売買・仲介を行う幕府博労頭として名主に指名されました。

「神田川」について

 神田川(かんだがわ)は、東京都を流れる一級河川で、井の頭池を水源として、中央区で隅田川に合流する全長約25kmの川です。神田川は、江戸時代には江戸市中の上水整備と平川の改修が行われ、江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになりました。 現在は、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流し、荒川水系の支流となっています。

 江戸時代には、神田川は江戸市民に飲料水を供給するための水道源として、神田上水と呼ばれ人々に親しまれていました。神田上水は、江戸期では最古の水道施設で、天正18年(1590年)頃に小石川の目白台下に堰を築き、上水路を開削して分水を行っていました。また、神田川は、江戸市中への上水が引かれてからは上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになりました。江戸時代には、神田川は水運の活発化による河川再整備が行われ、江戸市中への上水が引かれ、上流を神田上水、下流を江戸川と呼び、さらに開削された神田山から下流は神田川と呼ばれるようになりました。

「浅草橋」について

 浅草橋(あさくさばし)は、東京都台東区と中央区にまたがる神田川に架かる橋で、国道6号(江戸通り)を通す国(東京国道事務所)管理の橋です。かつては木造の橋が架けられ、明治時代には石造りの橋に架け替えられました。現在の橋は、1930年に関東大震災後の復興計画により建設されたもので、交通の要衝を担っています。

「蔵前町」について

 蔵前町(くらまえちょう)は、東京都台東区の町名で、浅草御蔵があったことに由来します。浅草御蔵は、江戸幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620年)に鳥越神社の丘(鳥越山)にあった三神社のうち二社を移転させ、丘の切り崩しによって隅田川を埋め立てて造られました。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や、新たに鳥越山の北側や西側に広がる湿地帯だった姫ヶ池なども埋め立てて武家屋敷を整備し、役宅を与えられ住んでいた。

「両国」について

 両国の地名は、隅田川に架かる両国橋に由来します。当時、隅田川の西側は武蔵国、東側は下総国と呼ばれていました。 両国橋は、隅田川をまたぐ形で武蔵国と下総国を結ぶ橋として架けられました。江戸時代初期には隅田川の西側を両国と呼んでいました。その後、隅田川の西側は日本橋両国→東日本橋と呼び方が変化していきました。一方、隅田川の東側は元々は向両国(むこうりょうごく)と言っていました。その後、本所東両国→両国と変遷していきました。つまり、呼称としては、元々は隅田川の西岸にあった両国が東岸へと移動した形となったんですね。

「両国は相撲の町」について

 両国は相撲の町として知られています。両国には、日本相撲協会が本部を置く両国国技館があり、年に6回の本場所を開催しています。また、両国国技館周辺には、相撲博物館や、相撲部屋が多数あり、相撲に関する様々な施設が集まっています。両国には、相撲に関するイベントやお祭りも多数開催されており、相撲ファンにはたまらない場所となっています。

「両国国技館」について

 両国国技館は、東京都墨田区にある、日本相撲協会が所有する大相撲の興行のための施設です。両国国技館では、年に6回の本場所が開催されています。また、プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブ会場としても使用されることがあります。両国国技館周辺には、相撲博物館や、相撲部屋が多数あり、相撲に関する様々な施設が集まっています。両国には、相撲に関するイベントやお祭りも多数開催されており、相撲ファンにはたまらない場所となっています。

「ちゃんこ鍋」について

 ちゃんこ鍋は、相撲部屋で食される鍋料理で、鶏肉や野菜、豆腐などを、だし汁で煮込んだものです。様々なバリエーションがあり、味噌味や塩味、醤油味などがあります。

 ちゃんこ鍋は、相撲部屋で食される鍋料理で、鶏肉や野菜、豆腐などを、だし汁で煮込んだものです。明治時代の中頃まで力士の食事は個々に配膳されていましたが、1909年(明治42年)の旧両国国技館完成の頃に名横綱である常陸山の人気で出羽海部屋への入門者が一気に増え、個々に配膳していてはとても間に合わなくなったため、常陸山により1つの鍋を皆で囲んで食べる形式が考え出されたとされています。

「相撲部屋」について

 相撲部屋は、大相撲の協会員が所属する団体であり、その団体が生活の拠点とする施設です。部屋には、年寄(親方)を中心とした共同生活を営む力士たちが所属しています。朝5時から10時までの稽古や、お昼ご飯のちゃんこ、午後2時から4時までの昼寝、午後6時からの夕食、そして午後10時ごろの就寝まで、力士たちは共同生活を送り、稽古に明け暮れる日々が続きます。部屋によっては週1回の休日を設けることがありますが、休みがない部屋も多いです。

「柳橋」について

 柳橋(やなぎばし)は、東京都台東区の町名で、隅田川に架かる橋に由来します。江戸時代には、花街として栄え、現在は商業地として利用されています。

「江戸時代の花街」について

 江戸時代の花街とは、遊女屋、芸者屋などが集まっている地域を指します。当時、花街は、芸妓や遊女たちが芸を披露しつつ、春を売る場所として栄えていました。

 芸妓と遊女は、江戸時代の花街で活躍した女性たちです。芸妓は、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性で、芸者・芸子とも呼ばれます。一方、遊女は、男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称です。

「浅草寺」について

 浅草寺は、東京都台東区にある、日本最古の寺院の一つで、聖観音菩薩を本尊とするお寺です。浅草寺は、推古天皇36年(628年)に、隅田川で漁をしていた兄弟が、一躯の観音像を発見したことから始まります。その後、勝海舟が浅草寺の再建を行い、明治時代には、浅草寺は花街として栄えました。現在では、多くの観光客が訪れる人気の観光スポットとなっています。

 浅草寺のご本尊は、聖観世音菩薩です。世間の生きとし生けるものの音声を観じ、その苦しみを除かれ、また願いを聴いて安楽を与えてくださる仏さまです。神変自在のお働きを主として「観自在菩薩」とも称されるが、一般的には略して「観音さま」と呼ばれます。

「浅草寺と徳川家光」

 徳川家光は、浅草寺を重要な祈願所と位置づけ、寺領を与えました。また、浅草寺の再建にも力を注ぎ、五重塔や本堂の再建を支援しました。

「門前町」について

 門前町とは、有力な寺院・神社の周辺に形成された町のことを指します。特に神社の場合は、鳥居前町とも呼ばれます。門前町は、神社・寺院の信徒が近隣に集落を形成した社家町や寺内町も含めて門前町と呼ばれます。

 

「雷門」について

 雷門は、浅草寺の山門で、正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)といいます。雷門は、平安時代の942年に建立されたとされています。現在の雷門は、1960年に再建されたもので、京都府亀岡市産の竹の骨組みに、福井県産のコウゾ100%の和紙を約300枚を貼り合わせて製作されています。

「雷おこし」について

 「雷おこし」とは、米を蒸して餅にしたものを炒り、水飴、砂糖、ピーナッツなどを混ぜて練り固めた和菓子の一種です。常盤堂が有名な製造元の一つです。

銀座キャピタルホテル茜から浅草への移動映像2

【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩。銀座キャピタルホテル茜から浅草への移動映像3です。

 車中ではバスガイドから以下のアナウンスがありました。

・仲見世通り散策後は一度、浅草寺裏駐車場に駐車しているバスに集合のこと。

・全員集合後、歩いて夕食会場の浅草米久に行く。

・米久では、牛鍋の夕食。

・夕食後はバスに戻り浅草の町を出ます。

・ただ、この他は皆様の好きなようにお楽しみください。浅草演芸ホールと仲見世の自由散策の時間配分はご自由にお選びください。

・目安は浅草演芸ホール1時間、仲見世通り自由散策1時間です。

・浅草寺裏駐車場から浅草演芸ホールまでは歩いて約10分です。

・浅草演芸ホールは自由席です。混雑時は立ち見となることを了承ください。

・浅草演芸ホールはいったん外に出ると、再入場はできません。

・浅草演芸ホール入場のタイミングはホール係の人の案内で行ってください。

・入場のタイミングは公演の終わるタイミングですから、少し待つこともあります。

・ホール内は携帯電話はマナーモードに、会話は控えるように、幕間も注意してください。

・緊急連絡先の確認。

・バス集合時間は午後4:00です。

浅草寺裏駐車場に到着

 浅草寺裏駐車場に到着しました。時間は13:09です。

浅草演芸ホールに歩いて向かいました。

【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩。浅草寺裏駐車場から浅草演芸ホールへバスガイドの案内で浅草演芸ホールに歩いて行く映像です。

浅草演芸ホールに到着です。

【もっとTokyo】満腹!抱腹!粋な東京散歩都内観光促進事業「もっとTokyo」でおトクに東京観光☆ 昼食は江戸前ちらし膳、夕食は老舗の牛鍋の2食付で満腹満足♪ 「笑いの殿堂」浅草演芸ホールでは抱腹絶倒間違いなし!
浅草演芸ホール
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浅草演芸ホール

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浅草演芸ホール

 バスガイドの案内で浅草演芸ホールに到着しました。時間は13:19でした。早速、浅草演芸ホールのスタッフの案内で入場して、楽しみました。また、浅草の仲見世通りの自由散策も楽しみました。

仲見世通り自由散策のための「浅草マップ」

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仲見世通り自由散策のための「浅草マップ」